自然観の違いからグレタさんに感じた違和感
グレタさんのスピーチに関して、批判が多いです。
色々な分析が行われていますが、冷静に考えると、私自身は自然観の違いから違和感を感じています。
思うに、グレタさんの自然観は、「人類は皆一丸となって、人類存続のために最善を尽くすべし」というものでしょう。
しかし、私の自然観は、「たとえ滅亡が運命づけられた人類であっても、混沌のなかでもがくことに光がある」というものです。
風の谷のナウシカのコミック版のような感じです。
その価値観に照らし合わせると、人類の存続のために上の世代を批判するというのは受け入れづらい面があります。
グレタさんの自然観には一神教のキリスト教圏の考え方を感じます。
ユニバーサルな価値観が通用するのだから、世界中が「正義」のために我慢することは当然だと考えます。
対して私は、ユニバーサルな正義などありえないと考えます。
そこに違和感を感じます。
世界平和を無邪気に訴えるヨーロッパ人と同様のナイーブさを感じます。
グレタさんに対する批判の一部は、こうした自然観の違いによるものではないでしょうか?
グレタさんの感情的なスピーチがよくないという指摘もあります。
ですが、これは的外れです。もともと環境問題は様々な経済利益も絡み、評価が分かれる問題です。
このような微妙な問題では、極論を言うことで聴衆の感情を揺さぶり、少数であっても強烈な賛成を引き出すことが大切です。
言い方は悪いですが、N国やISの戦略と同じ。
SNS時代にこそふさわしい戦略と言えます。
むしろこの話題で、マララさんの話し方をしても、誰の印象にも残らなかったでしょう。
さらに、グレタさんは徹底的な弱者とは言いづらい立場なので、感情的に受け入れづらいという側面もあります。
もし「先進国の少女」という強者側の立場として捉えるなら、「先進国の傲慢」と捉えられます。
一方で、「16歳の少女」という弱者側の立場として捉えるなら「若者から次世代への真剣な意見」と好意的に捉えられるでしょう。
一方でマララさんは「襲撃を受けて教育の機会を奪われた少女」で、誰がどうみても弱者です。なので、感情的に一般人が応援しやすいです。
したがって、グレタさんを強者とみるか弱者とみるか、どちらかによって印象が変わってしまいます。